アラビアのロレンス
スピルバーグは、もしリメイクするならCGは使うわけにはいかない、と語っていましたが、あんな映画もう二度と撮れないとも言ってました。
要は、豪鬼で言うところの瞬獄殺みたいなもんで、一撃必殺だけどミスったら悲惨。 エキストラとして使ってる人数もおかしいし、オビワンケノービ(ベンのほう)も出てます。
なにより砂漠に対する印象が始めと終わりで全く違うものになりました。 過酷な環境、それこそ砂漠とかを題材にした最近の映画(ハリウッドとか)は、CGで作っちゃってるっていうのが前提だから、「登場人物」には感情移入できるけど、演じてる俳優に対してはどこか冷めた目でしか見られないって言うのがあると思います。
例えば、どうせ喉乾いてるように見えるけどカットかかったら美味しいドリンク待ってんでしょ、みたいなのを無意識的にでも感じる。
それの最たる例がアバターで、すっごい奇麗でわくわくするようなあり得ない映像で飛び出てくるけど、俳優の目ん玉ぶっ壊そうとする時計仕掛けのオレンジとかとは違って、頭のどこかで、どうやって撮ってるんだろ、とか考えてしまう。キリがないんです。逆に開き直って、CGで作ってるって言っちゃえば、その足枷みたいのは取れるわけで娯楽大作として成り立つわけですね。
ただ、とおーーい地平線からラクダに乗ってやってくるだけのシーン(名シーンと言われているが、それが主人公ではないところがまた面白い)をひたすら撮ったり、一度歩いた道は足跡がついているのでその日はもう使えない、とか、まあこの映画だけじゃあないと思いますが、そういう過酷な映画なのに(あえて)ほんとに過酷な撮影現場だったんだよね、っていうのがさりげなく画面越しに伝わってくる、これが、ほんとに集中して映画を観ることができた要因なのではないかなと思いました。
人種差別に対する言及が描かれていますが、あるひとつのシーン(例えば『砂漠を走っているジープを追い越すバイク』の描写)でイギリスによる統治(イギリス主導の植民地)の終焉を描くとか、ほんとに感覚的な、限りなく緻密に構成されている映画製作というものに矛盾するようだけど、そういう内面に問いかけるような一瞬が多くあります。 というか、シンドラーのリストとかは誰もがお勉強する歴史ですが、第一次大戦のアラブ内紛なんて知らないぼくにとっては、お前この映画観るんだったらその辺の歴史しっかり勉強しろよ的な、ジョンガリアーノ的な映画でもあるような気がしました。
一人の天才的な戦略家が、最初からそういう感じですが、ある意味成長することによって、その人がどのようにして決断を下したかを、それナイス判断!!とか、いやそれ違うでしょ!とか思ってしまうのが観客でありますが、壮大なスケールをもってしても、結局その一瞬一瞬を判断したり感じるのは一人の人間であって、やはり人間というのは、人と人のコミュニケーションで成り立っているのであって、そのようなバランス感覚のある映画は僕はこれ以外にあまり知りません(・・鑑賞数の母数を比べないように)。 この映画は、いろいろな先進的映像技術が施してある、らしい。
今思えば普通の効果だったりすることが画期的であった時代とは、どんなに素晴らしいことだったか。 例えば、音を先に入れる(場面展開の時、例えば誰かと誰かが会話しているのに、ラクダの足音を入れる→シーン切り替え→それを見せる、 とか)、 マッチを消した瞬間に、砂漠の太陽を見せるとか(ものすごく奇麗)。 当時先端を走っていたフランス映画(ヌーベルバーグ)に影響を受けたようです、と編集の女の人(ちょっと太め)がおっしゃっていました。
ジャンプショットとか。 余談ですが、ゴダールとイーストウッドは誕生日が同じです。 こんな書面上で世界一周したようなアッチコッチ行った文体・許されるか分からない文章を書いてしまったのは、ひとえに村上龍の影響に他なりません。 そして、村上龍のはもっと読みやすいです。 くそくそ